【あらすじ・感想】地下室の手記|ドストエフスキー|自意識過剰な男の脳内

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ドストエフスキーに最近はまっています。

そして、ハマるきっかけとなったのが『地下室の手記』でした。

以前から気になっていた『地下室の手記』ですが、ようやく読み終えたのであらすじと感想を紹介します。

ドストエフスキーの真骨頂として有名な、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などの作品にも繋がっていく重要な作品です。

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あらすじ

第1章「地下室」・第2章「ぼた雪に寄せて」の2部構成になっています。

第1章では地下室生活を始めて20年ほどの主人公「俺」が独白をし、社会との関係を絶ってきた一方で、社会に対する批判・他人に対する憎悪を延々と続けます。

第1章「地下室」は独白調で「俺」が思いのまま書き連ねるので、正直読みにくいです。なので、第2章を先に読んで彼の性格を把握した上で、第1章に戻ってくるという読み方はありかもしれませんね。

第2章では、地上にいた頃の「俺」が、その過剰な自意識ゆえに周囲の人たちとうまくやっていけず、様々なトラブルを起こすエピソードが3つほど語られます。

エピソード1 将校との対決

ある飲み屋の前を通りかかった主人公「俺」は、窓から放り出された男を見てなぜだか「羨ましい」と感じます。

放り出された男は他者から少なくとも認識されている。それが羨ましかったのでしょう。

そのいざこざに巻き込まれようと、「俺」は飲み屋に入室します

知らず識らずのうちに通路を塞いでいた「俺」ですが、体格の良い将校にまるで認識されていないかのような退かされ方をして激怒します。

とは言っても、特に何もしない「俺」。数年たっても憎しみが募るばかりで、なぜかその心情を小説にして応募してみたりしましたが、特に何も起きず。

やがて意を決し、ささやかな「決闘」を一方的に決行しました。

そんな「俺」の悶々とした感情が、これでもかというほどに描写されます。

第1章で、

誓って言うが、意識しすぎること−–これは病気だ。本物の完全な病気だ。

と、自意識過剰を自認しています。それでも、意識せざるにはいられない。

それが、主人公「俺」という人間なのです

エピソード2 知り合いに反発する

気まぐれで、昔の知り合い・シモノフに連絡を取ってみた主人公「俺」。

ズヴェルコフという友人の送別会を開こうとしていたようで、彼らの会に「俺」も参加しました。

しかし、うまくやろうにもうまくいかず、混乱のあまりズヴェルコフを誹謗中傷し始めてしまった「俺」。

ここまで不器用だと、人との付き合いも難しいだろうなとは思ってしまいました。

当然、友人たちは激怒します。場のテンションがだだ下がりした中、再び盛り上げようと一行は売春宿へと向かい、「俺」も付いて行きました。

エピソード3 娼婦リーザとの出会い

ドストエフスキーの作品には娼婦がよく出てきますね。

向かった先の売春宿で出会ったのは、娼婦リーザ。

彼女に全てをぶちまけ、彼女を罵りながら自分を理解してほしいと力説する「俺」でしたが、そんな態度は彼女に一時的に共感(同情?)され、彼女は「俺」の住所に訪ねてきました。

しかしそのタイミングが悪く、お取り込み中のところをリーザに目撃されてしまった「俺」はヒステリーを起こしてうんぬんかんぬん。

感想

もちろん本作は小説として執筆されているわけなのですが、あまりにも生々しく自意識過剰な男の胸中が語られているため、これが実在の人物の手記だったらと仮定すると

「出版すべきではなかった」

と思わずにはいられません。

他人を憎みながらも、社会と断絶した生活を送りたいと思いきれてはいないという、主人公「俺」のデフォルト状態としてのダブルバインドが如実に表れている表現が、本作の比較的最初の方にすでに登場していたので引用します。

とどのつまりは、君たち、なにもしない方がいいのさ!意識的な無気力の方がマシだ!だから、地下室、万歳!というわけである。

(中略)

なぜ嘘かと言えば、地下室のほうがマシだなどということは決してなくて、何かもっと全然別のもののほうが良いに決まっているし、それを俺は渇望しているのだが、どうしても見つけられないということぐらい、自分でも二、二が四と同じくらいよくわかっているからだ。地下室なんて、糞喰らえだ!

ドストエフスキーの作品は個人的にはとても好きです。ただ、本作を読んでしまったことで、主人公「俺」に対して

「なんか、ごめん」

という感想を抱いてしまいます。

そんな謎な心理状態に導いてくれるのが、本作が傑作である所以かもしれません。

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